アメリカ人はなぜ馬肉を食べないのだろうか。馬肉の謎は、他の文化を広く見渡すと、さらに深まる。ヨーロッパ大陸の大部分の民族は馬肉を食べる。フランス人、ベルギー人、オランダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、ロシア人、みな馬肉を食べるに良いものと考え、1年間にかなりの量を食べる。フランスでは3人に1人が馬肉を食べ、一人当たりの平均年間消費量は4ポンドであり、これはアメリカにおける子牛の肉、ラム、マトンの一人当たり平均消費量より多い。第二次世界大戦後、販売量は減少しているものの、フランスにはまだ3,000軒の馬肉専門の肉屋がある。
馬肉食は奇妙なアップダウンを繰り返してきている。石器時代にさかのぼると、旧世界の狩人たちは野生の馬を貪り食った。馬を最初に手なずけ家畜化したアジアの遊牧民は、北ヨーロッパのキリスト教化以前の人々と同じく、馬肉を消費し続けた。馬肉に対するタブーがはじめてあらわれるのは、中東に古代帝国が起こったときである。ローマ人も馬を食べるのを拒否した。そして、中世初期には教皇の布告によってすべてのキリスト教徒に馬肉が禁じられると、馬はヨーロッパにおける聖なる牛に今にもなりそうな気配だった。ところがフランス革命の頃、馬肉はヨーロッパの食卓に復帰し始める。19世紀の終わりには、ヨーロッパ人-イギリス人を除く-は再び馬肉を大量に消費するようになっていた。第一世界大戦の直前にはパリジャンは年間1万3000トンも食べていた。ところが第二次大戦後、趨勢は再び逆に向かう。
石器時代の馬狩りの良き時代はたちまちに過ぎ去った。少なくとも地質学的に言えばたちまちである。気温がどんどん上がっていった。草原は森林に代わり、馬はもはや西ヨーロッパで群生できなくなった。しかし、アジアのウクライナからモンゴルに続く樹木のないステップ地帯はまばらに生えた草でおおわれ、野生馬の生き残りの群を養えた。人類が馬を飼いならし、家畜にくわえたのは広大な半砂漠の草原地帯だった。馬が家畜化された正確な場所と時は特定できない。しかし、それが起きたのは他の家畜に比べてずっと後ということだ。
馬はアジアの遊牧民にとって最も重要な生産手段であり、また、かれらが最も誇りにする財産だった。しかし、だからといって英雄や「有力者」の宴のために肥えた雌馬を殺すのを禁止することにはならなかったし、結婚式の客に煮た馬の頭や馬肉ソーセージをふるまうのを禁じることにもならなかった。その点に関して、中央アジアの遊牧民は前章で議論したアラブの中心地域のラクダ遊牧民ベドウィンによく似ている。長い旅の間、馬肉は非常食として欠くことができなかった。のちのモンゴル軍の行動から判断して、馬肉を食べる自由は彼らにとって軍事的に必要だった。
馬肉対するタブーが最初に現れたのは、おそらく、アジアと中東の人口密度の高い農耕文明が周囲の遊牧民から馬を取り入れ、自分たちの必要に合わせて馬を利用するようになった後に違いない。中東の初期の諸帝国は多くの人口と反芻動物の群を抱えていたから、大量の馬を飼うのは困難だった。馬は草を食べるので豚ほど人間と競合しないが、牛、羊、ヤギよりはるかに多くの草を必要とする。自然の牧草を食べて育つ馬は、自分の体重を維持するのに牛や羊より33%多くの草を必要とする。また、キルギスでは、雌馬の搾乳は、ちょっとした間違いでも非常に危険なため、経験豊かな熟練者だけに任されている。
農耕文明はなぜ馬を欲しがったのか。馬が家畜化され引具をつけて荷馬車をひかせる技術ができるとすぐに、馬はある使われ方をされるようになり、それが中世まで馬を飼う一番の目的になった。アジアの周辺起きた古代農耕文明は、馬を戦争用のエンジンとして欲しがったのだ。馬を騎兵の乗り物として使い始めたのは紀元前900年ごろ、アッシリア、スキタイ、メディア帝国が起こった頃である。その後、鞍とあぶみが発明されるとともに戦士は馬に乗ったまま剣を振るい、槍をつき、矢を射ることを習得しなければならなくなった。
ローマ帝国の崩壊の根本的な原因を説明しようと多くの説が出されている。しかし、ローマの社会的、政治的問題には他に何か原因があったのではないかという反論の心配などする必要なく、ローマ軍に敗北をもたらしたのは馬だ、と言い切ることができる。南ヨーロッパは、人間と反芻動物が高密度で住み、しかし自然の牧草地を欠いていたので、戦争用の馬を大量に買うのに適していなかった。そのうえ、生粋のローマ人は優れた歩兵ではあったが、騎馬兵としては不慣れだった。ダニューブ川のむこうから馬に乗って帝国を脅かす野蛮人から国を守るため、ローマ人は野蛮人の騎馬兵-スキタイ人、サルマチア人、フン族-を雇っていた。
ダニューブ川の対岸に、一人馬の数の方が多い部族が次々に現れては国境を脅かした。それら「野蛮人」にローマ帝国は結局屈服した。ゴート族と西ゴート族は紀元378年にアドリアノープルでローマ軍を破り、410年にはローマ市そのものを奪った。ヴァンダル族はゴール地方とスペインを席巻し、429年、はるばる北アフリカに至った。ずっとのちに中国からハンガリー平原まで、ユーラシアを征服したモンゴルの騎馬民も同類だった。
632年のマホメッドの死からわずか70年後、将軍アル・タリクに率いられたイスラム軍は、後年ジャバル・アル・タリク、(つづめて言えば)「ジブラルタル」、つまり「タリクの山」と言われるようなる岩場に到達し、スペイン侵略をうかがった。70年の間に、彼らは楊度をメソポタミアから大西洋に前広げていた。彼らが最初にアラビアを征服できたのはラクダのお陰だったが、それ以後は馬が彼らの主要武器だった。彼らの征服の異常に速いペースは、小型の、足の速い、丈夫な品種の馬に乗っていたためと言ってよいだろう。その馬は「今日アラブ種と呼ばれている馬の特徴である凄い耐久力と勇気を雄も雌も持っていた」。
グレゴリー三世の勅令以後、足を怪我したり病気になったり年老いた馬以外は、あるいは飢饉や籠城の時、非常食として必要になったとき以外は、ヨーロッパのどこでもめったに殺されなくなった。馬はまだ極めて経費のかかる動物だった。とくに北ヨーロッパの人口密度が南ヨーロッパの人口密度に近づき始めるにしたがって、また森や高地、残っていた自然の牧草地が姿を消すとともに、ますますそうなった。しだいに、穀物、南では大麦、北ではからす麦、で飼わざるを得なくなり、そのため人間と食物をめぐってもろに競合するようになったのだ。
中世には、馬を持つのは騎士、貴族であることのしるしだった。フランス語で馬を意味するシュヴァルを語源とする「シヴァルリ(騎士道)」という言葉がそのことをものがっている。そのことは領主から馬と甲冑を維持するに足る土地と人間を与えられ、そのかわり軍事的奉仕の義務を負う重装備の騎兵-ナイト(騎士)-に与えられた誉を表している。そういう見方を取れば、封建制度とは本質的に、重騎兵を供給するための軍事的契約だった。しかし、どの馬もそうできるわけではない。ドン・キホーテのロシナンテを思い出してほしい。騎士と120ポンドの甲冑、各種の剣類を負えるだけの大きな馬でなければならなった。16世紀の終わり頃には、良い戦馬は奴隷以上の価値があった。歴史家フェルナン・ブローデルは、フローレンスのコシモ・デ・メディチのような金持ちでも、たった2000人の騎兵の私兵を抱えるだけで破産してしまうだろう、と言っている。スペインがポルトガルを併合できなかったのは馬が足りなかったからだ。ルイ14世治世下のフランスは、戦闘中の軍を維持するのに、毎年2万~3万の馬を輸入しなければならなかった。アンダルシアやナポリで純血種の馬を買うには王の許可が必要だった。
増加する馬を養うため、農民はからす麦の生産を増やさなければならなかった。それは農地を三分することによってなされた。一つは休閑地にし、一つには秋まきの小麦をうえ、一つには春まきのからす麦を植える方法がとられた。馬にスキをひかせ、肥料を使い、畑を毎年後退させることによって、農民は馬を買えるうえに人間の消費用の穀物と家畜の生産高も上げられた。馬の力と三圃農法への転換は農業の生産性を急激に高めただけでなく、同様に急激な人口増加をもたらした。大農民は小農民をのみこんでいった。農業分野における労働力の必要量が減った。町や都市への大量移住を引き起こし、富めるものと貧しいものの間の富の分配の差を広げた。残っていた森はからす麦の作付を増やすために切り払われ、その結果、一般家庭の食卓に供される肉の量が減った。家で飼われていた豚は姿を消し、飢えと栄養不良が増えた。多くの人々にとって技術の進歩が彼らにもたらしたものはまったくの菜食主義の食事だけだった。
そういう困窮化と肉飢餓をしり目に、馬の数は増え続けた。フランス革命直前のヨーロッパには1400万頭、フランスだけで178万頭もいた、と計算している。勅令が何度も-1735年、1739年、1762年、1780年-出され、馬肉食の禁止を強化し、馬肉を食べると病気になると警告した。これは、肉に飢えた人々が禁じられた肉を以前にもまして求めていた証拠である。
1860年代には、パリの馬肉派はグランドホテルやジョッキー・クラブなどで盛んに優雅な馬肉の宴をもよおした。これは1871年のドイツ軍のパリ包囲の時の良い訓練になった。このときパリ市民は、必要に迫られて手当たりしだいに馬-6万~7万頭の馬-を食べた。19世紀末には熱狂的馬肉派は、馬肉生産業を公認化させ、馬肉の品質を保証する政府の検査制度を作らせるまでなっていた。馬肉の公認市場を開設させた圧力は、そういう市場が無かったら、その肉がひそかに、また危険ではないにしても品質が悪くなった状態で売られるであろう不要な馬が大量にいることを前提としていた。19世紀末のフランスには300万頭の馬がいた。その数は1910年をピークに、1950年の200万頭から1983年の約25万頭へと激減した。この減少は言うまでもなく、輸送手段の自動車化、農場での使役動物からトラクターへの代替、軍隊での馬から自動車への交代が原因である。
馬肉に対するヨーロッパ人の好みが奇妙な上がり下がりをくりかえしてきた理由をまとめてみよう。馬が戦争に必要な、稀少で絶滅寸前の動物で、そのうえ他の肉用動物が豊富にあったときには、教会と国家は馬肉の消費を禁止した。馬が増え、他の肉が減ると禁止は緩められ、馬肉の消費量は増えた。この方程式はイギリスにも応用でき興味深い結果が得られる。産業革命が最初に起き、最も早く都市化したイングランドは、18世紀に食糧の自給を止めてしまった。イングランドは、その海軍と陸軍を使って、世界史に例の七つの海にまたがる大帝国を築き、また、自分たちの輸出工業製品の価格に比して相対的に安い値段で食料を輸入できるような貿易交換比率をおしつけることによって、この問題を解決したのだ。イングランドは、18、19世紀にその帝国を広げることで、それまでよりはるかに遠い所にある牧草地の支配権を獲得し、安い値段で自分たちに肉を供給するための家畜を飼えるようになったのだ。
アメリカには約800万頭の馬がいる-世界で一番多い。その大部分は娯楽や競馬や「ショー」のため、また、繁殖用に飼われている。つまり、多くはペットなのだ。馬を食用に飼う精肉産業がアメリカでなぜ発達しなかったのかは理解できる-馬の消化器官が牛や豚に比べて効率が悪いからだ。しかし、他の目的で馬を買う副産物としてその肉を利用したってよいのではなかろうか。最初にいっておくと、アメリカには、実際にはかなりな規模の馬肉精肉業が存在する。ただ、その製品は海外で消費される。アメリカは世界一の馬肉輸出国であり、通貨条件が良ければ、年に1億ポンド以上の生肉、冷凍肉、冷蔵肉を外国に売っている。他の肉よりも安く買えさえすれば、多くのアメリカ人は馬肉を受け入れると思われる。しかし、そういうひとたちも、牛肉および豚肉業界の組織的な抵抗、また馬愛護者の攻撃的な戦術のため、その機会をほとんど得られない。
1980年代はじめ、安価な馬肉製品市場を作ろうとした。最上馬肉を同等クラスの牛肉より高い値段でアメリカ人に買わせようとしても無理と知ったコネティカット州のハートフォードのM&R精肉会社は、前肢部分の肉を使った加工馬肉「ステーキ」や「ホースバーガー」を売り出した。国際市場で馬の前肢肉はソーセージかひき肉用に使われており、同部位の牛肉よりはるかに安い。3つの海軍店での売り上げは、牛製品を大幅に下回る低価格馬肉製品ということで大いに上がった。レキシントン街と53番街の売店では客が列をなし、ニューヨーク市民がそのうち「ベルモント・ステーキ」と呼び始めたその味に舌鼓をうった。しかしM&R社のこの実験は短命だった。怒った自称馬愛好家やアメリカ馬協会、動物人道協会、アメリカ馬愛護協会の不満の声が、牛肉ロビイストたちの耳をとらえるようになった。モンタナ州選出の上院議員ジョン・メルチャーとテキサス州選出のロイド・ベントソンは、海軍長官のジョン・F・レーマン・ジュニアに、強い失望の意を伝えた。海軍は兵士に馬を食べさせているという印象を与えたら、志願兵を集められなくなるのではないか、それに、そうでなくても牛は生産コスト以下で売られているのだし、不況とコレステロールで評判が悪いために牛肉消費量が落ちているのに、というのである。その後まもなく三か所の海軍売店は、どれも馬肉を売るのをやめた。次に、なぜアメリかでは牛肉が王になったのか、という謎に進もう。
食と文化の謎 (岩波現代文庫) | |
マーヴィン ハリス Marvin Harris
岩波書店 2001-10-16 |